納屋橋まんじゅう 万松庵の表紙へ戻る

こだわり

お茶イメージ

店主独白

昭和30年代半ばの名古屋大須・栄界隈の風景です。
当主中島康博の幼少時代の写真と共にご一読いただければ幸甚に存じます。

当主中島康博の幼少時代の写真1

現在の前津通。
地下鉄名城線を作る最中、その資材に腰かけて撮られた1枚。

当主中島康博の幼少時代の写真2

現在の万松寺通と裏門前町通の交差点。写真右手奥に当庵(現・万松寺通店)。

当主中島康博の幼少時代の写真3

中区栄を南北に走る久屋大通にかつてあったエンゼル球場での運動会の模様。

過去の過去は未来 その18
 昨年5月に納屋橋架け替え100年を迎えました。言い換えれば納屋橋饅頭に改名して100年と云う年でもありました。
その記念すべき年に、納屋橋饅頭発祥の地へ納屋橋店を開店することができました。(納屋橋北西角ジョイフル名駅1階)
過去の過去(100年前)は、店舗内で蒸したての納屋橋まんじゅうを買えるだけでなく食べることもできました。
この店舗の未来すなわちコンセプトとして蒸したての納屋橋まんじゅうを提供でき、納屋橋・堀川・名古屋の歴史を伝える工夫を凝らしました。

 そんな時、納屋橋饅頭初代の修行先から「初代が配った100年前の渡り初め記念の盃がある。」との一報受けて現在納屋橋店に展示してあります。

 平成25年は納屋橋饅頭として大きな節目の年であり、無事に101年目を迎えることができた平成26年は、なんとなくプチ燃え尽き症候群になってしまいました。
そんな折、セントレア様から「セントレア開港10周年記念商品を作ってくれないか」との依頼があり、「納屋橋あんぱん」の企画・製造に自ら行動しました。
自身、技術者としての過去の過去は、清酒醗酵・和菓子製造・パン作り(趣味)だったので、これらの知識を活用して30年ぶりに粉まみれになりながらアンを包みました。
2ヶ月後になんとか酒種あんぱん擬きが出来上がりましたが、「燃える材料」すなわち「良い商品を作ろう」と云う意欲が湧き出してきて、ただいま「燃え尽きない症候群」になっています。
過去の過去に多くの体験を持っていると、沢山の応用ができて、未来が見やすくなると実感しました。
この半年間で2000個以上のあんぱんを包みました。30年前と違い、背中も腰もパンパンに張っていますが、「良い商品を作ろう」と云う意欲は今のほうが上だと思います。

 未来を模索しているとき、過去の過去に身を投じたら、未来と云う光の卵を見つけられました。
今回の納屋橋あんぱんの企画製造で、社長業より技術業の血が騒ぎだしてしまいました。
一段落着いたら30年ぶりに「納屋橋まんじゅうの改良」に取り掛かるつもりです。
過去の過去は未来 その17
 今から20余年前に消費税が導入され、それまで殆んど使われていなかった、1円玉や5円玉が脚光を浴びるようになりました。
 昭和30年代までは現在とは違う意味で、1円玉や5円玉は子供達にとって、一番の流通硬貨でした。
 1円で買える駄菓子が何種類もあり、よほどの事がない限り一日のお小遣いは10円以下でした。

 大須には「鈴木屋」と云う、美味しいお好み焼を食べさせてくれる駄菓子屋がありました。
保育園・小学校時代、鈴木屋へ行くのが日課で、その場所は子供達にとって美味しいお好み焼や駄菓子を食べるのはもちろん、情報交換場所であり・社会ルールを覚え・算数を覚える、緊張と緩和の最高空間でした。
当時の駄菓子には金券付のお菓子があり、運が良い時はお小遣いが増えます。
また当りがでるともう一つ同じ駄菓子がもらえる事もありました。
 このような状態になると「持って行ったお小遣いがあと何円残っているのか」「1円で何が買えるのか何個買えるのか」子供の頭中は楽しいパニックでした。
 そんなパニック状態でおばさんに「これ買える?」と質問すると、おばさんは優しくヒントを出して子供達自身に答えを出させていましたし、「ズルする」と厳しく叱咤してくれました。

 電卓もレジも無い「過去の過去」で、学校が終わったあとに1円玉や5円玉を握り締めて走って向う駄菓子屋(鈴木屋)は、物の大切さ・お金の大切さ・言葉の難しさ・人との交わり方など学校では教えてくれない多くの事を教えてくれました。

 「過去の過去」には、1円玉や5円玉が現代とは違う脚光を浴びた時代がありましが、数年後にはカード決済が今以上に日常的となり、レジで「ピッ」と云えば現金無しに決済が終了してしまう時代になるのでしょう。
日常生活で必要な知識を養う場所がどんどん無くなり、学問だけを植えつけられてしまう今の子供達が、どんな大人になってどんな社会構造になっていくのか私には想像つきません。

わたしは「鈴木屋」と云う最高の知識を養う場所を持ってて幸せです。
過去の過去は未来 その16
 「便利になった世の中が失ったもの」と云うテーマで見渡してみますと、意外と多くのものが見えてきます。  印刷関連でいえば原案から完成品までの工程で多くの職種(職人)が省かれるようになりました。また和菓子製造に必要な道具関連も製造工程が様変わりして、従来の職人に代わってまったく異業種へ発注するようになりました。
「守らなければならない文化(技)」と「変化させていく文化(技)」の境界線を引くことが非常に難しくなってきました。
印刷物を作るときの写植や構成・和菓子を作るときの焼印など職人技と云う文化が存在して、製作に時間が掛かってもお金が掛かっても、「職人技」と云うカリスマがそれらをカバーしてきました。しかし現代はスキャナー・レーザー・PCなどを応用すれば、短時間で安価で「限り無く職人技」に近いものが出来上がってしまいます。広く浅く商売する者にとっては最高にありがたい事です。
ただし短時間に安価で出来上がってしまうと、どうしても扱いが雑になってしまいます。「扱いが雑になる」と云うことは、集中力が疎かになる事です。
一つの本物を作り上げる・一つの特技を身に付ける過程で、長時間の集中力は必要不可欠で絶対必要な環境と投資が付いて回ります。
PCなどが無かった「過去の過去」は、時間と環境と執行猶予付きの投資がありました。氷河の流れのような執行猶予時間が多くの人に「夢と希望」を持たせてくれたので必然的に「文化(技)」は守られました。PCなどの発達により時間の流れが川のようになってしまった現代こそ、意識して守らなければ多くの「文化(技)」が安易に変化して行き「守らなければならない文化(技)」がどんどん消えていき境界線すら無くなってしまっています。
過去の過去に普通にあった文化(技)は、よほど意識して現代の文化(技)を上手に取り入れながら守らないと未来に伝承できないと思います。
過去の過去の職人達も、その時代に生まれた文化(技)を試行錯誤してより良き物を作り出すため上手に取り入れて同化させたと思います。
より良き物への探求心が革新(変化)であり、その探求心の継続が伝統(文化)と思います。
いつの時代の人も受け継いだ素晴しい文化(技)を、その時代に適応するようにアレンジして次の時代へ引き渡す、この時間経過が醸し出す喜怒哀楽こそが至福だと思います。
例えば、喜怒哀楽の「楽」だけに偏った人生は決して楽しい人生ではなく、「哀」があってはじめて「楽」を感じるのだと思います。
失ったものを取り戻すことは、新たに作り出すより難しいのではないか!
過去の過去は未来 その15
 昭和30年代漫画のヒーローと云えば、「鉄腕アトム」と「鉄人28号」でした。
このヒーローは両方ともロボットでしたが、いま思えばまったく意味の違ったロボットでした。(何故だか人情味は、両方共にありましたが!)
「鉄腕アトム」には知能も感情もあり、敵を倒すにしても自分自身で考えたり、悩んだり、時には相手を助けたり、最後には自分自身を犠牲にしました。
一方「鉄人28号」には知能も感情もなくて、操縦器を操る人間次第で善にも悪にもなってしまいました。(何処となく顔も怖かったです)こんな極端な二体のロボットが過去の過去では完璧にヒーローでした。
「鉄腕アトム」はもちろんですが「鉄人28号」も正太郎君と云う子供にしてはスーツを着た大人以上の常識人が操縦器を操ることで「鉄人」が「アトム」と同様にヒューマニズムも持ったロボットとなりヒーローになったと思います。
終戦から10余年、日本中が混沌としていた時代背景は自分自身の考えが大きく進路の方向性に影響を与えていたと思います。(鉄腕アトムバージョン)
しかし30年代中頃から高度成長の兆しが見え始め、大企業から中小企業まで
ワンマン社長の下、上司の命令通りまじめに働くことが正しい自分の進路であると思う時代になってきました。(鉄人28号バージョン)
40年代終盤オイルショック・50年代のレイガノミクス・60年代のプラザ合意を経てバブル崩壊、日本の高度成長経済の終焉であり、鉄人28号バージョンの終了でもありました。
会社も個人も急速なデジタル化が進み、情報の多様化と過多化で正太郎君がパニック状態になり、力が無くてもいいので小回りの効く「敏速28号」がもてはやされる時代になってしまいました。そして高性能の機械化(PCも含めて)は、それを操れる人を「なんでも出来る」と錯覚させてしまい、機械がある時とない時の自分に戸惑い悩む。(ガンダムバージョン)
戦闘ロボットをスーツのように着て自分自身の能力が何百倍にもなってしまうと、最終的には自分自身をコントロールできなくなり「キレル状態」になる。
過去の過去は「漫画は漫画」であって「夢」でした。しかし現在では想像もできないような事が短時間の間にできるようになり、多くの人はそれに就いて行くだけで精一杯で、夢と現実の境がぼやけてきてしまっている。
簡単で便利でスピーディーなものから得た情報や結果は、自分自身が導きだしたことではないので身に付かない。
たまには「過去の過去」のように、エレベーターではなくて、階段を一歩ずつ上がるような過程を楽しんでみると、身に付く結果が味わえるのではないでしょうか。
過去の過去は未来 その14
 先日、小学校の同窓会が卒業以来44年目で初めて行なわれました。私は中学から他校へ行きましたので、正真正銘44年ぶりに会った友も多数いました。
はじめの数分間は、なかなか全員と話づらく完璧に知っている友とだけ話しました。だんだんお酒が入り環境に馴染んでくると44年前にタイムトラベル。
44年ぶりにお会いした恩師との思い出は、勉強のことではなく褒められたことでもなく叱られたことばかりでした。
当時は「体罰」と云うより「叱られた」で、「殴られた」と云うより「こつかれた」と云う記憶で、「恥の文化」の教育一環だったように思います。
友との昔話も「○○君の誕生日会に誘われたとき初めてサーロインステーキを食べた」とか「△△君の家に遊びに行ったとき初めてステレオを聞いた」とか、いつも初体験でワクワクする感動を味わっていました。
昭和30年代「戦後は終わった」と云っても、まだまだ欧米から入ってくる
目新しいワクワクするものが大人にも子供にもいっぱいありました。
そんなワクワクが緊張を和らいでくれる最高の緩和だったように思います。
いま思えば、過去の過去には他愛もないことが最高の緩和となり、その緩和が人の心に余裕を持たせてくれて、常識では理解できない「体罰」や「いじめ」を防いで「自殺」と云う名の「殺人」を防いでいたように思います。
昭和30年代から40年代は、東京タワー・東京オリンピック・大阪万博などワクワクする行事が多々あり、その行事内容の情報は殆んどベールに包まれていました。最新で最高の情報は行った人の話であって、話し手側も聞き手側も
尾ひれを付けて話をしていたり聞いていたりしていましたから、ワクワク期間が長かったような気がします。
テレビの情報番組もインターネットも無かった過去の過去は、行事の情報源と云えば「人伝え」が重視され、大人からの情報や友達からの情報に耳を傾け、複数人が情報人を取り囲んで沢山の会話をしたように思います。
この「複数人での会話」からお互いの性格などを知りあって、相手の状況に応じた「褒めたり・叱ったり」をしていたのだと思います。
現代は「相手の状況に応じた」すなわち臨機応変をすると「差別」と云う言葉に置き換わり別の感情問題が発生します。
「臨機応変がまかり通る」には、過去の過去のように複数人と会話して多面的な考え方を持つことではないでしょうか。情報番組やインターネットからの情報は、単面的で決して最善の結論とは思いません。
過去の過去は未来 その13
 先日、5歳の孫娘が母親のスマホ画面を小気味良く操作していました。私は母親のメールを打つ真似をしているのだと思い、「凄いね、メール打てるの!」と声をかけたら「違う!ゲームやっているの」と返事があり、その様子を観ていると本当にゲームをやっていました。
 「5歳の子供がスマホでゲームをやっている。」凄いことですが、怖いことでもあります。(ちなみに、私は携帯電話であまりゲームをしたこともありません。)
 流石に5歳の子供がはじめからスマホを操作できたとは思いませんが、初期操作だけを母親から教わって、あとは自分で画面を無造作に触りながらできるようになっていったと思います。(ある年代より下は、「兎に角、触って覚える。」ある年代より上は、「下手に触ると壊れる。」と思って触らない。)
 私の5歳ぐらいの時(過去の過去)は、独楽を上手に回したり面子を上手に返したりする小学生や大人がスーパースターであり、自分も上手くなりたいと遮二無二、独楽や面子の練習をしていました。
 小学生はなかなかコツを教えてくれませんでしたが、普段は怖そうな大人の人達はチョイと「どや顔」をして、独楽や面子の遊ぶコツを教えてくれました。
 「昔取った杵柄」と云わんばかりに手取り足取り遊びのコツを教えてくれて、その合間に聞いてもいないのに「昔(その人達の過去の過去)のあれこれ」をたくさん聞かされました。(その話は今では私の財産です。)
 過去の過去は、遊びを含め殆どのことを年下は年上から学びました。だから早く自分も大人になりたかったし、未知の領域である大人の社会が輝いて見えていました。
 現在は、電気機器やPCをはじめ多くのハード・ソフト両面において、年上が「どや顔の年下」に教えてもらっているのが現状で、また同時に30代・40代の大人が週間漫画を人前で平気に深読しており、容姿や体形を見なければ私の物差しでは、どちらが大人か子供か区別できません。
 回せば架かる「黒電話」・押せば架かる「携帯電話」・触れば架かる「スマホ」電話を架けると云う道具が短期間の間に、形状も機能もどんどん変化して「下手に触ると壊れる。」世代では変化について行けなくなってしまいました。
 ゲームでもPCでも、入園前の子供から老人まで簡単に操作できるようになる近未来において、リーダーの資格は過去の過去にいたような独楽や面子(アナログ)を上手く操れる人かも知れません。
過去の過去は未来 その12
 今年5月、5年ぶりに納屋橋河畔に新店舗を開店いたします。その場所は1886年に納屋橋まんじゅうが誕生した記念の場所です。
 介護老人施設の1階に出店で、一般のお客様はもちろんですが施設関係者の方々もお客様なので「どの様な店舗」にするかで悩みました。
 未来に悩んだ時は「過去の過去を見つめ直す」が私の「座右の銘」なので、子供の頃の大須万松寺通店の光景を思い浮かべてみました。
 「鰻の寝床」のような奥に細長~い万松寺通店(その2参照)。奥から店先へ納屋橋まんじゅうの生地造り⇒製あん場⇒まんじゅう成形⇒発酵⇒蒸し上げと製造が進み、最後に「出来立てアツアツの納屋橋まんじゅう」が、店頭の棚にならびます。
 お客様は納屋橋まんじゅうの出来上がりをリアルタイムで見ているので、少々待ってでも温かい納屋橋まんじゅうを購入できますし、待っている間にできたての超アツアツの納屋橋まんじゅうをその場で食べられるお客様もみえました。町内の風呂屋帰りに店先で世間話をしながらアツアツ納屋橋まんじゅうを10個ぐらいペロッと食べて帰られる常連客もみえました。
 過去の過去の万松寺通店は今風で云うオープンキッチンで、「温かい納屋橋まんじゅうを購入できたり、世間話をしながらアツアツの納屋橋まんじゅうを店先で食べたり」をごく普通にできる下町店舗でした。
 人は、美味しいものを食べたり・綺麗なものを見たり・ゆったりした空間を味わったりすると自然に笑顔になり会話が弾みます。
 会話を弾ます空間としては、レストランや喫茶店のようにキッチリとした椅子やテーブルではなく、誰もが気軽に合席できる長椅子や将棋椅子と思います。
 過去の過去にあった下町店舗には、賞味期限や消費期限の表示を気にせずに商売していたし(安全)、「お得意様」も「一見のお客様」も合席でアツアツの納屋橋まんじゅうを食べながら他愛も無い世間話して、ゆったりとした時間を味わっていました。(安心)
 過去の過去は、「0と1」だけの組み合わせではなくて、0から1の狭間を楽しむと云う、いわば「結果より過程」を楽しむと云う感覚があったように思います。
 納屋橋まんじゅう発祥の地で介護老人施設の1階の店舗像は、まさに私の子供の頃の万松寺通店風空間に近づけることだと確信しました。 2013年5月に乞うご期待を。
過去の過去は未来 その11
 自分語録の中に「究極のデジタルはアナログ」と云うのがあります。
 過去の過去は、薯蕷まんじゅうを作るときは主原料である「伊勢いもの皮」の剥き方・摺り方(夏・冬で芋のねばりが違うため)を先輩職人から教えていただき、毎日・毎日違う原料から同じまんじゅうを作っていました。
 その頃の大須は映画館が沢山あり、映画館の上映映画看板も看板職人が一枚・一枚書き上げたものでした。
 現在、一部店舗で売られている売価100円前後の薯蕷まんじゅうは、ミキサーの中に芋粉パウダー・米粉・砂糖・添加物を入れて、スイッチONで生地を作り機械で包餡したものです。
 この製法は誰が・何時作っても同じものを簡単に作り上げてしまう。但し、いつも同じものであるが故、商品としてはすぐに「飽きてしまう」。
 映画館の看板もコンピューターを駆使して「虚の世界の映画」を想像力無しで、「現実の世界」と錯覚させ「墟と実」を混乱させることができる。
 デジタル化がどんどん進んで、ちょっと前なら玄人でも難しいことを素人が簡単にやれてしまう昨今、「PCや新素材をそれなりに使いこなせれば」玄人になったような錯覚に陥り、商品としてはすぐに「飽きてしまう」モノばかりが、世の中に氾濫してしまいます。
 菓子職人が、一つ一つの「伊勢いもの顔」を見ながらどの様に皮を剥くか・どの様に摺るか・どの様に包むかを、無意識と云う意識の中で作り上げた薯蕷まんじゅうは、一見同じようでも同じではない。だから「いつまでも飽きない」。
 看板職人が描いた映画看板は、飾る場所・看板の大きさ・観る人の年齢層で色合い・表情・ぼかしなどを、無意識と云う意識の中で微妙に変化させ、同じ映画の看板でも一見同じようで同じではない。だから「飽きない迫力」がある。
 この30余年間で、ガクガクした動きの「インベダーゲーム」から超スムーズな動きの「ドラゴンクエスト」まで、デジタルはどんどんデジタル的動きからアナログ的動きになってきて、「虚と実」の混乱が起こっている。
 人が「虚と実」を見分けることができて、本物を正当に評価できた「過去の過去」を、現代の混沌としたデジタル社会に生きる人々は、真剣に模索しているのではないでしょうか。
 本物の職人(アナログ)がデジタルを駆使しはじめたら「鬼に金棒」です。
 過去の過去も、未来も、「0」&「1」では作り出せない「飽きないもの」を求めていると思います。「飽きないもの」⇒「飽きない」⇒「商い」⇒Winでは!
過去の過去は未来 その10
 大須という町は今も昔も商店街です。商店街の一階はもちろん店舗ですが二階からは殆んど住居でした。今と違い隣家との隙間はまったくなくてそれぞれが独立した一軒家なのに落語に出てくるような長屋状態でした。
 毎朝、家から小学校に行くまでに沢山の人に「おはよう」とか「車に気をつけて」とか「風邪治った」とか声をかけてもらいながら登校していました。
 でも朝寝坊した時などは、その声をかけてもらうのが「恥ずかしい」「鬱陶しい」などの感情と戦いながら、うつむき加減で走って学校に行ったものでした。
 「横の繋がり」いわば二次元的生活空間では、常に「他人の目」を気にして日々を生活し、その「他人の目」をお互いに利用したりされたりしながら生活していたと思います。
 テストで悪い点を取ってきた時など母親のセリフは常に「こんな悪い点とってきて、私は明日から恥ずかしくて外にも出られない!!!」と云われたものでした。
今思うに、このセリフには二つの矛盾があります。一つ目、テストは「他人の目」にさらされていないので恥ずかしがることはない。二つ目、翌日も普段どおり店に出て、普段どおり近所の方々や多くのお客様と会っていました。
この『恥ずかしくて外にも出られない!』と云うフレーズは、まさしく日本の伝統文化である『恥の文化』ではないでしょうか。
「恥ずかしい・恥じらう・恥」から養われる心は日本人特有の躾の原点である。
上記の母親が私を叱る言葉を「アホ・バカ・・・!」でこられたら反発もしましたが、「私は恥ずかしくて・・・。」でこられては反発もできませんでした。
 子供ながらに「母親に恥をかかせてしまった。次は頑張ろう。」と一瞬だけでも神妙になります。
 「過去の過去」にあった二次元的生活空間での「他人の目」は、日々の生活から多くの日本文化(恥の文化)を自然に教えてくれた、躾教室だったように思います。
 現代の高層マンションでは、「縦の繋がり」いわば三次元的生活空間ではなかなか「他人の目」を有効活用できない。「恥の文化」を放棄してしまった者には、「他人の目」=「鬱陶しい」だけの存在になってしまっている。
 今も昔も日本人は日本人なので、現代版「他人の目」をみつけて「恥の文化」を見出せば、他人の心を思いやり会話をするようになる。相手を思いやる心が「すぐにキレル日本人が増えていくこと」を抑えられる最高の力と思います。
 監視カメラではなくて二次元的心のカメラが、いま最も必要なのでは。
過去の過去は未来 その9
先月、私たち夫婦は大学時代からの親友夫婦とその娘夫婦六人で道東旅行をして、知床の自然、釧路湿原の自然、オンネトーの自然など、「自然」と云う最高の癒し空間と時間を感じてきました。
 日の出と共にカヌーで湿原を散策すると、そこは自然界(動物の声とカヌーを漕ぐときの水音)の音だけで、まったく人工音(携帯も圏外)はありません。
 親友夫婦は「遠い昔にあった感覚」と云い、若い夫婦は「初めての感覚」と云い、六人全員が「心地よい・安定した」感覚を共有できました。
 元来、日本では極身近に普通にあった「自然」、あまりにも身近にありすぎて、人は「自然の良さ・大切さ」を忘れ、だんだん人間自身の知恵と努力で作り上げた「人工」と云う「現代版自然」にとりつかれていきました。
 昭和40年代、和菓子屋の世界にも自動でまんじゅうを作ったり、餅をついたり、包装したりする機械が続々と導入されました。
 ある観光地では、「お客様を呼び込むパフォーマンス」として、まんじゅうの自動製造機を店の前面に出して、次から次へと製造されていくまんじゅうを、売り捌いていました。
 しかし、最近の観光地では、職人(?)さんが、一つ一つ焼いたり、蒸したりして「これは手作りです」とお客様を呼び込むパフォーマンスをしています。
 職人(人)が作ったものは、同じようでも微妙に違いがあり、職人が代われば当然のごとく製品としての許容範囲内で、個性と云う名の変化がある。
 私は30年間、北海道の大自然を感じに毎年行っています。同じ場所の自然でも許容範囲内で、毎年違った癒しの空間と時間を感じさせてくれます。だから「飽きない」。室内での自然的人工遊具では毎回同じなので「飽きてしまう」。
 「お金・手間(不便)・体力」を使っても自然と云う癒しを求める現代社会、並んで待たされても文句を云わずに「作り立て・手作り」を求める現代社会。
 私の子供の頃(過去の過去)は、ちょっと移動すれば「自然」がいっぱいで自分自身も自然の一員になれました。
 また、夕刻になればどの町内も肉屋の前は「揚げたてコロッケ」を買うために、主婦が普通に並んで待っていました。
 50歳代以上には「懐かしく」、50歳代以下には「新しい」と感じる未来は、過去の過去にあった「肉屋の揚げたてコロッケ」のように、許容範囲内で微妙に変化するアナログ的なものではないでしょうか。
過去の過去は未来 その8
私たちが子供の頃の『ヒーロー』と云えば、月光仮面・ハリマオ・ナショナルキッド・鉄腕アトム・エイトマンなど、「常に一人で多くの悪人に立ち向かい困難な状態から悪を懲らしめ平穏な生活を取り戻す。」でした。
 しかし息子が子供の頃は、ゴレンジャーを初めウルトラマンや仮面ライダーまでもが「一対一の時には悪に負けそうになり、そのあとで複数になって一人と云うか一匹の悪を倒し全員で褒め称える。」になりました。
 私たちの頃は、ドラえもんに出てくる「ジャイアン」みたいに、乱暴者なんだけど「いざという時」には体を張ってみんなの前に出る『ヒーローor大将』がいて陰湿なイジメや限度を超えた暴力から、みんなを守っていてくれたように思います。
 「たかが漫画」「されど漫画」、子供の頃に見た(特に本ではなくてテレビ)登場人物(ヒーロー)は頭のどこかで実在人物で、その子供の『人と成り』に多大な影響をおよぼしていたと思います。
 複数の○○○レンジャーが一人の悪と戦う、複数の○○○兄弟で一匹の怪獣と戦う。これは見様によっては「集団でのイジメ」と似ているように思います。
 最近では非常にリアルな戦闘テレビゲームがあり、テレビ内の複数ヒーローを見て育った若者が、テレビゲーム内に入り込んで自分自身が戦闘マシーンとなりバーチャル空間で、好きなとき自由にただ一人のヒーローになっている。
 むかし「月光仮面ごっこ」をする時、公園に集まった全員が「月光仮面をやりたい!」しかし月光仮面は一人しかいないし悪党は数人いる、そのとき常に「子供社会内のいざこざ」が起こる。でも数人の悪党役がいないと「ごっこ」は成り立たないので、何となくみんなが「我慢して妥協点」を見出す。
「ごっこ」でヒーローをみんなより少しでも多くするためには、友達に対して威圧的であったり・優しかったり・時には進んで悪役をかってでたりしていた。
 みんなヒーローになるために努力したし、悪役をやった時にヒーローから、叩かれたり蹴られたりした痛みを知っているからこそ、自分かヒーローになった時は「加減」をする。そうするとヒーローの順番が早くなる!
「○○ごっこ」があった『過去の過去』には、自分だけの都合で親・兄弟を殺したり見ず知らずの人を殺したりするような事件は無かったと思います。
 幼児期の一定期間デジタルの無いアナログ社会で生活して、子供同士五感で対話する機会をつくる。でも、その前に親達自身にその様な空間が必要かも!
過去の過去は未来 その7
私が子供の頃まだ大須には、自転車の荷台に乗せた「紙芝居屋」などが常にウロウロしていました。
 その「紙芝居屋」のおじさん達は、子供の下校時間・遊ぶ場所・子供軍団で誰が【大将】なのか把握しており絶妙のタイミングで自転車を止めて、【大将】に声をかけながらゆったりと店創りをはじめ、ある程度人数が集まるまでは決して「紙芝居」が始まることはなかったです。
 「紙芝居」の準備が整って「さぁ始まるか!」と思うと、やたら汚い木箱から、誰が使ったかわからない割り箸1本を二つに折り、その2本になった割り箸で木箱から取り出した「水飴もどき」を確か5円で買った人だけが、「紙芝居」を観ることが出来ました。
紙芝居の内容も殆んど知っているし、家に帰れば最高級の水飴(和菓子屋なので)があるのに、何となく「おじさんの話術」で「水飴もどき」を買って、みんなといっしょに非衛生的な水飴もどきをなめながら、いつもの紙芝居を見ていました。
 いま思えばその紙芝居を機軸に、おじさんVS子供達・仲の良い子供達VS他グループ子供達といった、ある意味で大人になるための課外授業でした。
 紙芝居の内容は同じでも、おじさんが紙芝居のストーリーに織り交ぜて話してくれる話は、けっこう面白く学校の友達より早くに他校の流行を知ることができました。また他校の生徒との会話や喧嘩は、その後、同校の中学生になった時にお互い良き思い出話にもなりました。
 あの頃はクイックリーなデジタル的時間経過ではなくて、ゆったりとしたアナログ的時間経過で「○か×か、右か左か」ではなく、結論より過程を楽しんだり、過程の中で勉強したりして「人間ぽく」と云うか「人間臭さ」と云うか、社会生活に必要な手練手管を覚えていったと思います。
 ○○省が「ゆとり教育」の制度を創ったり見直したりして、結局は「日本の未来の大人たち」を振り回してしまっている。
 「過去の過去」の子供たちは如何にして人と付き合ったり、遊んだり、勉強したりしていたかを知ることが、「日本の未来の大人たち」を育てる制度の最高の土台になると信じます。
過去の過去は未来 その6
今から40年ぐらい前、私が住んでいました所(その2参照)は、大須万松寺通中央にある30坪の土地に目いっぱい建てられた、多目的・アメーバー的な家でした。
 唯一家の中で不変の場所といえば、1階の表通面から3分の2までの店舗と作業場だけで、1階奥の部屋は住人全員(家族7人+従業員10余人)の三食の食堂兼・軽作業場兼・お手伝いさんの寝室。2階は家族7人の居間兼・寝室。 特に2階は仏間であり来客の時などは客間と変化し、日曜日が雨の日などは私たち子供の公園とアメーバーのごとく変化します。小学校低学年の時、下の姉(当時中学生)が「ベッドが欲しい!」と云い出し、畳の上20cm位に鉄パイプで組んだ板状へ布団を敷いて寝ていました。
 その姉のベッド騒動のあおりを受けて、私と上の姉は布団を敷く場所が無くなり、押し入れの中央に板を張り「二段ベッドもどき」を造ってもらいました。
 今思えば友達に見られるのが「どこか恥ずかしい」でも、押し入れベッドは私にとって、店舗と作業場以外初めての非アメーバー空間となりました。
 映画『三丁目の夕日』にも出てくる「万年筆」や「テレビ」、子供のころ祖父が買ってくれた「腕時計」をはめて遊びに行こうとすると、「腕時計など小学生にはまだ早い中学生になってから!」と母親に取り上げられたこと。(でも、中学生の時は違う腕時計を買ってもらい、あの時の腕時計は今もって消息不明)
 当時、「子供も大人も・職人も旦那も」『心地よい貧しさ』を、みんな大事に持っており、その「貧しさ」からの脱却が「未来志向のエネルギー」になったと思います。
 でも「心地よい」からこそ、今振り返ると「ほのぼの」と感じられると思いますし「心地よい」からこそ、無謀な高望みもせずにチョッと先の贅沢を見つめて、日々の生活を楽しんでいたような気がします。過去の過去に本当に存在し、状況は違うが日本国民全員が共通して持っていた『心地よい貧しさ』 「心地よい」からこそ、その共通した「貧しさ」をご近所同士の助け合いで笑いに変えられた。 こんな『心地よい貧しさ』が、今の日本の未来へ本当に必要な過去の過去なのではないでしょうか。
過去の過去は未来 その5
戦後、日本の食生活は肉類中心の欧米型になり、高カロリー・高脂肪・高タンパク質で、栄養バランスの良い日本型食生活を三食とも食べる事が皆無になってしまいました。
 その結果、糖尿病・肥満・高脂血症・高血圧症などいわゆる『生活習慣病』が蔓延し、栄養バランスを整える為に『サプリメント』と称する補助剤をわざわざお金を出して摂取している現状です。
 戦前までの日本即ち過去の過去は、三回の食事を米・野菜・魚介類など自然界の恵みをバランス良くとってサプリメントに頼らなくても、六大栄養素(タンパク質・糖質・脂質・ビタミン・ミネラル・食物繊維)を摂取していた。
 日本の未来の食生活を考えるのに、過去の過去である戦前の食生活にたくさんヒントがあるように思います。
 私は和菓子屋に生れ育ちましたので、一番身近な食材である『あずき』を取り上げながら日本型食生活の素晴らしさを綴ってみます。
 『あずき』は日本が原産地でない事は確かなのですが、「古事記」や「日本書紀」にもあずきの名前が登場するくらいなので、日本人とあずきの関わりは1700年以上です。
 元々『あずき』は食用と云うより薬として利用されており、「脚気の人」や「産後の女性」が食していたようです。
 脚気はビタミンB1の欠乏で起り、ビタミンB1が少ないお米を主食とする日本人にとって、昔はかかり易い病気の一つであった。『あずき』は落花生・豚バラ肉に次いでビタミンB1が多く含まれている食材で、あずきの煮汁を薬として飲んでいたといいます。
 また産後の女性は、お産の時にできた血栓で血管が詰って心臓や脳の病気になるおそれがあったので、血液をサラサラにするサポニンやアントシアニンを多く含むあずきを粥にして食べさせたといいます。
 そして昔にはあまりなくて現代人の代表的な病気の一つである「便秘」にも『あずき』は、非常に有効な薬です。
 便秘に有効なサプリメエントに食物繊維と云うのがあります。食物繊維が便秘に効くのは、ちょうどスポンジが水を含んで膨れるように、腸内で食物繊維が水分を吸収して便を柔らかくして、同時に膨張して腸壁を刺激して便通が良くなるのです。あずきの食物繊維含有量は、なんと牛蒡の3倍もあります。
 何百年前の日本人が、ビタミンB1やサポニンやアントシアニンや食物繊維などを知っているわけがないし、又それぞれの成分を『あずき』が豊富に含んでいる事など知る余地もなかったと思います。
 『あずき』ひとつとっても、日本人は代々受け継いできた経験と知識を駆使して、自然界から多くの「サプリメント」を得てきました。ただし、そのサプリメントを得るためには少々の手間が必要である。
 「良薬口に苦し」と云いますが、やはり不味い物より美味しい物の方が良いに決まっています。サプリメントとして最高の『あずき』も、そのままでは硬くて苦いだけなので、和菓子屋は心を込めて美味しいあんを造り、そのあんで饅頭や羊羹に仕上げてきました。
 家庭料理(おふくろの味)も、日本の食材にチョット手間をかけて食卓に出すことにより、日本人は毎日多くのサプリメントを身近な所から摂取していたのではないでしょうか。
 今後、化学がもっと進化していき多くの食材が分析され解明されればされるほど、その道のプロ達は、「昔々、うちのばぁ~さんが造っていた料理にそっくり!」と云うようなことになるのでは。
 未来を見るのには占い師より、過去の過去を見つめた方がよく当たるのでは!!!
過去の過去は未来 その4
平成13年暮に『揚げまん棒』を誕生させ、今度は6月に納屋橋まんじゅうをパイ生地で包み高温で焼き上げた『パイまん』を誕生させました。
 和菓子は『水』を売る商売、洋菓子は『空気』を売る商売、和菓子屋である弊社がパイを売るとき、シトリをとるかパサツキをとるか最後まで迷いました。
 試作中、多くの方に試食をしてもらい意見をもらいましたところ、男女問わず意外とパサツキを嫌う方が多かったのにビックリ致しました。
 一番の理由に、「口の周りや服が汚れるからパイはあまり好きではない。」でした。ただこれからも、お客様からのご意見を直接お聞きしたいので、名駅サンロード店は『パイまん』販売にともない、店舗改装して実演販売しております。
 子供の頃お菓子や味噌や昆布を買いに行くと殆どが『はかり売り』で、針の止まる位置が正規なのか少々多いのかを見ているだけでも楽しかったし、豆腐屋ではなんの支えもなして均等に包丁を入れていくのを見ているだけでワクワクしました。
 昔の商売にはただ商品を売るだけではなく、商品と一緒に『心地よい緊張と緩和』を売ったり買ったりして、その商品や商売の薀蓄を楽しんだように思います。
 今回の『揚げまん棒』や『パイまん』も、既存の『納屋橋まんじゅう』を使う事により「わたしは揚げまん棒よりパイまんの方が好き」とか「やっぱりもともとの納屋橋まんじゅうのほうが美味しい」とか、多くのお客様が『納屋橋三兄弟』の評論家になってもらえたらと願っております。
 納屋橋三兄弟が蒸す・揚げる・焼くの3バージョンに対して、今回もう一つ『お笑いバージョン』として、一口かじった納屋橋まんじゅうをスクイーズしたキーホルダーを創りました。
 まんじゅうを押すとかじった所から『あんこが飛び出す』仕掛けになっています。この商品は、私独自の仕事という緊張の中の心地よい緩和です。
 多くのお客様に、緊張した空間でチョッとした緩和を提供できたら幸いと思って創りました。
過去の過去は未来 その3
はやいのもで、万松寺通店も新装して1年が過ぎました。『揚げまん棒』でスタート。02年3月には薬品でさつま芋の灰汁抜きをせず砂糖を使わずにオリゴ糖で作った『鬼まんじゅう』を実演販売。6月は乳化剤や安定剤を使わず水とつぶ餡だけで作った『小豆アイス』。11月は納屋橋まんじゅうの生地を作る過程で出来る『甘酒』を、甘味喫茶で販売しました。
 これら商品の共通点も『過去の過去は…』です。昔、ばあさんが作ってくれた不細工だが、なんとなく美味しかった「鬼まんじゅう」。買ってすぐにはカチカチで歯が立たなかった「アイスキャンディー」。秋・冬のお祭りの寒い時、身体が暖まるので出してくれた「甘酒」。
 この三商品、実は私が食べたいと思った事から製造に取りかかりました。ある意味ではオーナーの『わがまま』ですが、私が、食べたい・美味しいと思わなければ、自信を持ってお客様にお売りする事はできません。
 今年の正月は万松寺通店で異変が生じました。例年、親戚への「お年賀菓子」は煌びやかな上生菓子の詰合箱に「お年賀」の短冊を付けるのが主でした。ところが今回、実演している「鬼まんじゅう」を見て、「昔食べたような鬼まんじゅう」とか「おじいちゃんが好きだからお年賀で持って行こう」とか、「鬼まんじゅう」がお年賀菓子に通用する時代です。
 原材料の種類が少なかった時代、真面目にこだわりを持って製造することが他社との違いをだすことで、パッケージなどで違いをだす現在とはベースが違います。
 お客様が本当に望む新商品も、過去の過去に沢山あると思います。
過去の過去は未来 その2
戦後すぐに建てた万松寺通店、1階は通面3分の1が店舗、中央半分が作業場、残りが食堂兼居間兼お手伝いさんの寝室。2階は家族7人の居間兼寝室と仏間兼客間。3階(今思えば完全な違法建築)の一部が物置で、一部が職人の寝室という間口三間、奥行き九間の典型的なウナギの寝床家でした。
 平成13年7月『揚げまん棒』が完成し、9月CBCラジオまつりでは一日に1800本完売という好スタートをきり、後は万松寺通店での本格販売をどうするかであった。
 昨今の大須万松寺通は、年配者はもちろんのこと若者も多い町になった。新店舗のコンセプトは『和風でモダン』。いろいろな意見がでた中で、戦後すぐに建てたこの家の柱や梁を利用する事が、いちばんコンセプトに合っていると気付く。
 50年前の柱や梁、壊してしまえばゴミにしかならない。しかしそれらには長い年月が醸し出した、お金では買うことの出来ない多くの付加価値がある。
 また、継ぎ足し継ぎ足しで造っていったこの家のアンバランスな造作も、見方によっては素晴らしい。
 結果、柱や梁やアンバランスな造作を極力残し、今までの裏方を主役にするという考えで、屋根まで8メーターの吹きぬけにした。ただし外観からはわからぬように。
 売り方もただ売るのではなく、揚げまん棒もその場で揚げ、鬼まんじゅうもその場で蒸す。甘味処のぜんざい・おしるこ等もすべて自家製にこだわり、出来立ての美味しさに触れていただける店舗にした。
 おかげさまで11月オープン以来、前年の売上を大きく上回りました。また、ルーズソックスを履いた中高生や若いカップルなど、今までにない客層が気軽に和菓子を楽しんでいただける店になりました。
 私が生まれる前からある柱や梁は、若い人には新鮮であり年配者には郷愁であるその場で造って売るのは、今の食品業界では最善の売り方であり昔は当たり前の事であった。
 やはり時代は繰り返しであり、温故知新であることを痛感した。
過去の過去は未来 その1
納屋橋まんじゅう万松庵も本家から独立して80余年の歳月が経ってしまいました。この間、本家から伝授された納屋橋まんじゅうの味を守りつつ、万松庵独自の味を研究し名古屋大須を拠点として営業してまいりました。
 昭和40年代からの高度成長で、販売拠点も大須から名古屋駅・栄と広がり50年代からは、少しづつ郊外の量販店にも出店して私どもの目線もお客様の目線もだんだん大須から離れていったような気がします。
 昭和から平成に変わり、右肩上がりの高度成長も過去のものとなり、またバブル期異常経済後遺症もない若者たちが、数年前から大須に集まるようになってきました。
 もともと大須は老若男女が集まる処であり、その源は急激でなくゆっくりとでも常に町が変化しているからと思います。
 私どもは食品会社なので食という角度から大須を見つめますと、50年も60年以上も同商売を続けられているお店の共通点は、商売の基本スタンスを変えないと云うことです。
 厨房丸見えの飲食店、商品をパック詰でなく秤売りする昆布屋、見ているだけでも楽しい陶器屋、それぞれのお店はマニュアルでない臨機応変の接客対応など、ある年代より上の人は懐かしいし、ある年代よりは下は新しい体験をする町と思います。
 このことからも、少し前の過去は過去ですが、もっと前の過去は未来ではないでしょうか。未来を見つける最善の方法は過去の過去を思い浮かべることでは。
 平成13年秋、過去の過去即ち私が生まれ育った大須万松寺通店を見つめ直し、この店の未来を画きました。

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